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ケイトの思い出:希望の物語 1 2 3 4 5

 彼女は退院して、母親に戻ることを望んでいました。しかし、彼女が入院している間に私たちは成長し、二人の弟だけがまだ高校生で家に残っていました。私たち5人の兄弟も、その当時は彼女を理解することが難しく、彼女を家族の中に喜んで迎え入れることができなかったことを思い出すと、心が沈みます。

 残していった子どもたちが、もうほぼ成人に近い思春期の若者へと成長している家庭に戻ってこようとしていることを想像してみてください。彼女は、私たちからの助けを受けずに、苦労しながら家族の中に自分の居場所を取り戻しました。思春期は、多くの理解と共感を期待するにはいい年頃ではありません。

 自分たちの名誉のためにいうと、大人になってからは、もっともっと彼女を理解し、彼女に喜びを与えるようになりました。82歳で亡くなったときには、彼女を慕う5人の子どもと24人の孫、16人のひ孫の大家族の女家長になっていました。

 母は悲惨な病気から回復しながら、精神病と診断された人や精神病院に入院したことのある人に常についてまわる偏見と向きあうことになりました。就職を断られるという非常にがっかりする経験を何度も重ね、彼女はたくさんの教育プログラムを受講しました。

 そしてやっと、母に一か八か仕事を任せてみようという人が現れたのです。コネチカット州のニューヘブンにある学校で、昼食の管理係をさがしていました。その市のなかで犯罪率と非行率の最も高い地域にある中・高学校でした。彼女の指導のもと、スタッフが子どもに人気のある健康的な食事をつくると、食事プログラムを利用する生徒の数が急速に増えました。彼女はそれぞれの生徒の名前を覚え、彼らの生活環境を知り、民族的なニーズと栄養のバランスのとれた食事を準備することに時間をかけました。自分の子どもたちにはしてやれなかった母親の愛情を、彼女はそこの貧しい子どもたちに注いだのです。

 そして、彼女は地域の人々と積極的にかかわりはじめました。栄養士としての仕事を通じてのほかに教会、農民共済組合、さまざまなボランティア活動を通じて人々と出会いました。長期入院にまつわる偏見のせいで仲間はずれにされたり拒絶されることが時々ありました。人々の失礼な言葉に心の奥底まで傷つけられたこともあります。わたしは、夜、彼女が泣き疲れて寝入るのを聞いていたことを覚えています。それでも彼女はやり続けました。

 彼女がサポートネットワークを作るために使った大切な方法がいくつかあります。人々と連絡を欠かしませんでした。相手が負担に感じるような方法ではなく、手短な電話で様子を確かめるとか、焼きたてのパンを届けに立ち寄ったり、誰かのためにお使いをしてあげたり、カードを送ったりというように。やがて、人々はこの生き生きとした女性が精神病院にいたなどということを忘れ始めました。いつも人のためになり、彼女がサポートを必要としているときには、いつも誰かがいてくれました。

 気に入った人とは(たいていの場合そうなのですが)、連絡をとりあい一緒にすごす時間を計画することで、その人たちとのつながりが途絶えないようにしていました。これによって、彼女の人生はとても豊かなものになりました。彼女がこのサポートシステムを意識的に作ったのかどうかはわかりませんが、彼女はうまくやり遂げました。元気であり続けたのは人との絆のおかげだと言えるでしょう。それは健康維持のためだけではなく、やがて、彼女の人生をますます豊かなものにすることになりました。

 彼女はサポートシステムを強く保つ方法を知っていました。それは、お互いに認め合うことがカギになります。実際のところ、彼女は見返りを期待せずに、できる限りの愛情を他の人に注ぎました。11月のはじめには、彼女の長いリストにのっている全員にクリスマスカードを送り始めました。私はときには何通ももらいました。というのは、私が喜びそうな新しいカードを見つけるとおくってくれたからです。

 ブルーベリー狩りをしているとしたら、余分にとって、気にかけている人に配りました。たえず友達を買い物やランチに連れ出すことを申し出ていました。教会の慈善バザーで働いていたときは(脳梗塞で倒れる前日までしていたのですが)、いつも、友達や家族が使えるようなものがないか気にかけていました。人と連絡を絶やさないように定期的に手紙を書いたり電話をしていました。誰かが話を聴いて欲しいときには、いつでもそれに応じていました。

 できるときに人にサポートを提供することで、自分がそれを切に望んでいるときにサポートを受け取っていました。人のためにしたことが彼女の第2の天性になったのです。彼女は退院してから、躁うつを寄せ付けなくするためにサポートを使っていました。つらいときには、信頼でき、心の奥の本当の気持ちを打ち明けることのできる数多くの人のなかの一人に電話をしていました。その人たちは、しばしば、彼女と時間を過ごし、彼女がいつもの活動を再開できるようになるまで、彼女を支えていました。自己流の相互サポートが彼女の人生を豊かなものにしました。

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