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違っていたかもしれないのに 1 2 3

 この不治の精神病の女性は家族のもとに帰ってきました。そして公立校の栄養士としての仕事を得て、子どもや孫やひ孫まで、どんどん増える家族の面倒をみながら20年間働き続けました。母はいま82歳です。32年前“病院”から出ました。母は私よりエネルギーがあって、人生に情熱を持っているとよく感じさせられます。精神薬は何も飲んでいません。何が不治の病ですって?

 母は私たちが小さいころどんなだったかは思い出せません。そのころの記憶は電気ショックで消されてしまいました。人生の貴重な8年間を失い、精神病の施設で過ごした人に向けられた偏見を克服しなければなりませんでした。

 時々、私は母の人生について空想してみます。母の人生のストーリーはどんなふうに違っていたでしょうか。もし、母がパートの仕事をしてみたいと言ったとき――寂しがり泣くことが始まるちょっと前のころ――父が「いいよ、ケイト、僕に何か手伝えるかい?」と言っていたとしたら。母の女友達や愛するペンシルバニアのオランダ系の家族が集まって、ずっと何時間も話を聴き、手をとって、同情したり、一緒に泣いてくれたりしていたら、どうなっていたでしょう。母が何か自分のためにいいことができるようにと、一日か二日、一週間、あるいは一ヶ月、子どもたちの面倒をみるわと言ってくれていたら。カリブ海のクルーズに二週間誘ってくれていたら。だれかが毎日メッセージをくれていたら。食事やいい映画や劇やコンサートに連れ出してくれていたら。誰かが母のお尻をたたいて、いい本を読むようにとか、栄養の重要性についての講義を受けるようにと諭してくれていたら。もしも、もしも……。

 もしかしたら、私が大きくなる時に、お母さんがいてくれたかもしれません。そうしたらどんなに素敵だったか。兄弟たちも同じように思っているでしょう。きっと父も妻がいてくれたらよかったし、祖母も彼女の人生に娘がいたらよかったに違いありません。一番大事なのは、母も自分自身を保っていたかったはずだということです。全ての記憶を損なわれることなく。

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