HOME > WRAPの起源 > メアリー エレン・コープランドさんのエッセー > 私たちにとってリカバリーの意味すること
私たちにとってリカバリーの意味すること
1 2 3 4 5 6 7

リカバリーの筋書きのなかで、薬の果たす役割はなにか?

 もっとも困難な症状を和らげることに薬が助けになると感じている人が多いようです。過去には薬が精神症状をおさえる唯一、理にかなった方法であると考えられていましたが、リカバリーの筋書きにおいては、薬は、症状を軽減するための多くの方法のなかの選択のひとつでしかありません。もちろん薬は選択のひとつですが、服薬順守が主目的であると考えるのは適切ではないと信じています。

 精神症状を経験する人たちは、これらの症状を和らげるための薬の持つ副作用によって、辛い思いをしています。副作用は、肥満、性的機能を失うこと、口の渇き、便秘、極度の倦怠感、疲労感などです。処方されている薬の多くは、販売されるようになってからまだ日が浅いことを知っています。そのため、長期的な副作用については誰もわかっていません。ジスキネジアが抗精神薬の副作用であると認められるまでに何年もかかっていたことを知っています。私たちは同じように、取り返しのつかない有害な副作用の危険があることを恐れています。私たちがこうした恐れをもち、生活の質を損なっている薬を服用しない選択をすることを支援者に尊重してほしいと思っています。

 同じような経験をしている人たちが集まると、薬に関する心配事と、役に立つ代替的な治療法についての話がはじまります。予防法としての薬という考え方や、薬を症状に対処する唯一の方法とすることを疑問視する、グループとしてのエンパワーメントが起こります。一方、医師の多くは、患者が薬を非難することを心配し、薬をやめることで症状が悪化することを恐れます。これらは対立する見方となり、上下関係を強化します。人々は、もし医師に薬を減らすことや、やめることについて相談すると、強制入院や強制治療を強要されるだろうと感じています。医師は、症状がますます酷くなり、個人の安全を脅かすことになりかねないような、信頼できない考え方に人々が同調するのを恐れます。その結果、薬に関する話し合いは、医師への相談なしに行われることがよくあります。

 リカバリーに基づいた環境においては、選択と自分が主体となって決めるということに、もっと関心が寄せられるべきです。もし、薬が行動や思考をコントロールするとともに、楽しみを感じられなくさせて、気力を減退させているという訴えがあるならば、症状について話し合う方法を見つけ出し、症状に対処するさまざまな方法と選択肢を広げることが必要だと思います。

 シェリー・ミードは、彼女にとっても他の多くの人にとっても役に立つ、洗車のイメージを作りました。

 もし、症状の初期の頃を自動洗車の装置に向かって運転している状況にたとえるとしたら、自動装置にタイヤを置く前にまだ多くの選択肢があります。

 横に逸れることもできるし、車を止めることもできるし、後退することもできます。また、いったん、自動洗車のプロセスがはじまってしまったら、自分のコントロールが及ばないと感じるにしても、この状況は期限が限られていて、乗り切って最終的には出口に到達することができるのだということを、自己観察を通して知っています。たとえ洗車の工程で、恐怖からこぶしを握り締めていたとしても、私の行動は自分で選択したことで、自分のコントロールのもとに起きたことなのです。

 このような過程は人々が引き金を定義し、自動的な反応を観察し、自分の防御メカニズムについて内省する技法を身につけ、最終的には洗車の工程をもっとうまく乗り切れるようになることを手助けします。薬は危険な状態に陥ることなく洗車過程を通過することに役立つかもしれませんが、もっと望ましい結果をもたらすために自分の技法を開発し、自分の責任を果たすことにつながる、多くのより積極的な方法があります。

< 前のページ
次のページ >