HOME > WRAPの起源 > メアリー エレン・コープランドさんのエッセー
ケイトの思い出:希望の物語 1 2 3 4 5
 わたしの母であるこの女性、ケイトのストーリー(経験の物語)を皆さんにお伝えしたいと思います。彼女の何がそんなにユニークなのでしょうか?

 ケイトはペンシルバニア州の丘に囲まれた農場で育ちました。おとなしく、わきまえていて、礼儀正しく、慎み深いのがペンシルバニアのダッチ少女の典型とされていた時代ですが、彼女は、それとはかけ離れていました。二人の姉妹と違い遠慮なく発言し、積極的でいたずら好き、その当時の女性としては賞賛されることのない性格でした。「どうせ雨が洗い流してくれるのに、なぜ歩道を掃除しなければならないの?」と質問するような女の子だったのです。

 栄養学の学位をとって大学を卒業した後、郡政府の農場相談員として働いていましたが、すぐに結婚して5人の子どもを持ちました(私はその真ん中です)。ケイトは37歳から45歳までの8年間を州立精神病院で過ごしました。重症で不治の躁うつ病と診断されていました。

 彼女が入院する前は、私たちの家族生活は素朴で、のびのびとしていました。ケイトは仕事をやめて、園芸をしたり、鶏を育てたり、縫い物をし、料理を作るなどといったさまざまなことを家族と一緒にすることに専念していました。彼女は私が活動的であることや、創造性、個性を尊重し奨励してくれました。私は冬の寒い日に私たちを暖めてくれた自家製のフライドポテトと揚げたパン生地を決して忘れることはないでしょう。私が8歳の時に彼女の入院が始まったのですが、彼女から学んだ数々の「自然を愛する」方法は、私がつらい時期を乗り切る支えにもなっていて、今でも忘れずに使っています。

 私たちが病院を訪問すると彼女は非常に重い抑うつ状態にいて、やせてだらしなくしていることがありました。髪をきつく後ろでしばり、いつも同じ服を着ていました。私たちがそこにいることにほとんど気がついていないようでした。ぐるぐると歩き回って、手を硬く握り、泣きながら、理解できない言葉を何度も繰り返していました。また別の時には彼女は熱狂的に笑ったり大声で話し、奇抜で恥ずかしい行動をとっていました。

 彼女の主治医は母は不治の精神病者でよくなる見込みはないので、母のことは忘れなさいと言いました。私たち(5人の子ども)は医者にもう来ないほうが良いと言われた後も毎週土曜に彼女を訪問していました。
次のページ >