HOME > WRAPの起源 > メアリー エレン・コープランドさんのエッセー
違っていたかもしれないのに 1 2 3
 思えば20年前、精神科医を訪ねて、精神疾患が遺伝性のものであることや、私が母と同じ疾患があることを告げられる代わりに、私は友達を探して、泣いたり笑ったりする間、抱きしめてもらったり、話をきいてもらったりすればよかったのです。もし私の夫が「心配ないよ、メアリーエレン、僕が何とかする。ちょっと休みなさい。それが当然だよ」と言ってくれていたら。家族が資金を出し合って、私をホワイトマウンテンのハイキングに送り出すとか、もっとすごいコースに挑戦するよう励ますとか、ランチとサイクリングに連れ出すとか、花を摘みに行こうと言ったり、子猫を連れてきたりしてくれていたら。家がきれいな花で飾られていたら。私専用の小さなスペースがあって、好きなときに行って私に必要なことを何でもやれていたら。自分が価値のある存在で、気分をよくするために何でもしていいんだと知っていたら。一ヶ月に上映される映画を全部見に行きなさいとか。何でもいいのです。ただ想像してみるだけです。

 もしかしたら、私は、私の痛みに対する、捉えることのできない答えを求めて、精神科の施設でそんなに長い日々を過ごさずにすんだかもしれません。薬漬けで霧のかかったような頭で過ごした何年もの月日、奇妙な行動をとる時期を織り交ぜた、深い悲しみと死にたい気持ちにさいなまれた長い年月を過ごさずにすんでいたかもしれません。ダメージを元に戻すのに何年もかかりました。おそらく手の震えはなかったでしょうし、この辛い日々に失ってしまった人との繋がりが今も人生の一部であり続けたのにと思います。私のキャリアや評判は、50歳になってからすっかりやり直すのでなくて、そのまま保たれていたのだろうにと思うのです。

 あの霧のかかったような時期を通して私の中で何かが動いていました。これは何か間違っていると知っている何かが。ドクターに、人々は毎日、どうやってこのような病気に対処しているのですかと、問うように仕向けた何かが。ドクターは情報を集めてあげようといいました。(「やっと、何か役に立つことを約束してくれた」)期待に胸を膨らませて次の週に訪ねると、彼は、何もそんな情報は集められていないといいました。精神科の治療、投薬、抑制についての情報だけしかあげられないと。私の中の深いところから、“何か間違っている”という声が聞こえました。声はだんだん大きくなっていきました。

 この4年間、私は他の人々がどうやって対処しているのかを見つけ出すことに、生活を捧げてきました。学んでいくにつれ、また、学んだことを自分の生活で実践してみるにつれ、私はますます元気になりました。私のように不治の精神病と言われた、静かだけれどとても勇気のある人たちが全国にいるということがわかりました。この人たちはあきらめていませんでした。彼らは混乱から抜け出す道を探し出していました。
 私は彼らの大切なメッセージを世界に伝える媒体となることにしました。情報を集めて、遠く広く、必要があればどこへでもそれを広めていきました。セミナーや講義や本やビデオや草の根のネットワークを通じて。

 私が学んだ一番大切なこと:誰かのためにそこにいてくれる人が、他のなによりも一層の元気と回復を生み出します。今度あなたが落ち込んだり、興奮したり、奇妙な気分になったりしたら、手を伸ばして助けを求めてください。もしあなたの愛する人が“精神的な症状”を持っていたら、一緒に座り、話を聴いて、その人に泣いたり、叫んだり、怒鳴ったり、ののしったりさせてあげてください。
 判断を下さないように。批判しないように。アドバイスは控え、ただそこにいてあげること。おいしい食べ物や花を持っていってあげること。力を取り戻せる美しい場所に連れて行ってあげること。あなたがしてもらいたいことを、してあげてください。
 (著:メアリー エレン・コープランド、訳:高村なをみ)
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