HOME > WRAPの起源 > メアリー エレン・コープランドさんのエッセー
それでも私はなんとか切り抜けていました。学校を卒業して、当時の女性がしそうなことをすべてしました。大学に行き、結婚して、家庭を持つこと。ときどきすべてが困難に思えました。あるときには逆に、すべてがとてもたやすく思えました。誰の人生もこんなふうだったのでしょうか。前へ前へ、どんどん進んでいったのです。
それからあまりに深い絶望の時期がやってきました。私はベッドから起き上がることができず、ましてや5人の子どもたちの世話をしたり、“ハイ”なときに始めた学校を運営するどころではありませんでした。私は精神科医を訪ねました。彼は私の話を聴いてそれは間違なく、母と同じ躁うつ病であると言いました。彼は日に3度リチウムを飲めば大丈夫だといいました。なんという簡潔な答えでしょう! 私は大喜びしました。
10年間、私はリチウムを摂り続け、自分を向上させるために、できることはなんでもしました。生活はとても混乱した状態でしたが、躁状態はそれほどひどいものではなく、落ち込みもたいしたことはありませんでした。
それから私はリチウムの毒性による、危険な状態に陥りました。胃炎から脱水状態になっているときにリチウムを摂り続けると、リチウム中毒になることを、なぜ誰も教えてくれなかったのでしょうか。そう考えると、私はほとんど信仰のように自分の口に運んでいたこの物質について、あまりにも知らなさすぎました。元気でいられるようにあらゆることを自分の力でやっていたのに、私の元気の最終的な責任は精神科医の手中にあると、まだ信じていたのです。私のために正しい決断をしてくれていると信じて疑わなかったのです。
リチウム中毒を経験してから、私の体は二度とそれを欲しなくなったようでした。それを飲むたびに、中毒症状が戻ってくるのです。そしてリチウムがないと、あの暗く深い絶望と高い達成感とを繰り返す時期が戻ってきました。薬を飲んでいるときだけ、それらの症状は抑え込まれていたのです。うつは重苦しく、自殺のおそれがありました。躁はまるで制御不可能なものでした。幻覚は生活のスタイルになりました。私は仕事を失いました。友人や家族は離れていきました。私は精神病棟で幾月かを過ごしました。私の命は滑り落ちていくようでした。次から次へと薬が試され、常に数種類の薬を飲んでいました。もうなにも、私を活きいきとした生活へ連れ戻してくれることはないように思えました。
霞がかかったような意識を通して、私は答えを探していました。どうやって他の人たちは、こんな出来事に遭遇しながらも、切り抜けているのだろうかを考えていました。その人たちのすべてが私と同じようであるはずがない――働くこともできず、ほとんど自分のことさえできないなんて。私は主治医に躁うつ病の人たちがどうやって一日一日をうまく生きているのかを尋ねました。彼は情報を集めてあげるといいました。私は次に彼に会うのをとても楽しみにしていました。なにか答えが見つかるのではないかと。しかしそれはどれほどの失望に変わったことでしょう! 彼は薬と入院治療と抑制についての情報はあるが、人々がどう生きているのかについてはなにも情報がなかったといいました。
それからあまりに深い絶望の時期がやってきました。私はベッドから起き上がることができず、ましてや5人の子どもたちの世話をしたり、“ハイ”なときに始めた学校を運営するどころではありませんでした。私は精神科医を訪ねました。彼は私の話を聴いてそれは間違なく、母と同じ躁うつ病であると言いました。彼は日に3度リチウムを飲めば大丈夫だといいました。なんという簡潔な答えでしょう! 私は大喜びしました。
10年間、私はリチウムを摂り続け、自分を向上させるために、できることはなんでもしました。生活はとても混乱した状態でしたが、躁状態はそれほどひどいものではなく、落ち込みもたいしたことはありませんでした。
それから私はリチウムの毒性による、危険な状態に陥りました。胃炎から脱水状態になっているときにリチウムを摂り続けると、リチウム中毒になることを、なぜ誰も教えてくれなかったのでしょうか。そう考えると、私はほとんど信仰のように自分の口に運んでいたこの物質について、あまりにも知らなさすぎました。元気でいられるようにあらゆることを自分の力でやっていたのに、私の元気の最終的な責任は精神科医の手中にあると、まだ信じていたのです。私のために正しい決断をしてくれていると信じて疑わなかったのです。
リチウム中毒を経験してから、私の体は二度とそれを欲しなくなったようでした。それを飲むたびに、中毒症状が戻ってくるのです。そしてリチウムがないと、あの暗く深い絶望と高い達成感とを繰り返す時期が戻ってきました。薬を飲んでいるときだけ、それらの症状は抑え込まれていたのです。うつは重苦しく、自殺のおそれがありました。躁はまるで制御不可能なものでした。幻覚は生活のスタイルになりました。私は仕事を失いました。友人や家族は離れていきました。私は精神病棟で幾月かを過ごしました。私の命は滑り落ちていくようでした。次から次へと薬が試され、常に数種類の薬を飲んでいました。もうなにも、私を活きいきとした生活へ連れ戻してくれることはないように思えました。
霞がかかったような意識を通して、私は答えを探していました。どうやって他の人たちは、こんな出来事に遭遇しながらも、切り抜けているのだろうかを考えていました。その人たちのすべてが私と同じようであるはずがない――働くこともできず、ほとんど自分のことさえできないなんて。私は主治医に躁うつ病の人たちがどうやって一日一日をうまく生きているのかを尋ねました。彼は情報を集めてあげるといいました。私は次に彼に会うのをとても楽しみにしていました。なにか答えが見つかるのではないかと。しかしそれはどれほどの失望に変わったことでしょう! 彼は薬と入院治療と抑制についての情報はあるが、人々がどう生きているのかについてはなにも情報がなかったといいました。