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ケイトの思い出:希望の物語 1 2 3 4 5

 私の母のように重い躁うつを経験し長期入院していた人のことを思うとき、その人たちの退院後の生活は限られていて孤立したものにちがいないと思うかもしれません。彼女の場合、そうではありませんでした。彼女はとてもたくさんの人の支えとなっていたので、人は彼女のことを愛し、支えていました。

 1994年の春、82歳のとき、広範な脳梗塞をわずらい、話すことができなくなり右半身が麻痺しました。このときの彼女の入院は違っていました。彼女は私の父と住んでいた退職者コミュニティーに付随している立派な病院の患者でした。美しく飾られた個室で、お年寄りのニーズに応じるスタッフの愛情のあるケアを受けていました。

 病院のスタッフは、彼女が入院したことで何が起こるかを、全く予測していませんでした。彼女を取り巻く多くのサポーターが、知らせを聞いた途端に、訪問し始めました。絶え間なく。一分たりとも彼女が寂しく思うことがないようにしたいという思いから、家族や友人が四六時中部屋に集まっていました。部屋をのぞいて、そこにいることを知らせるだけの人たちもいました。でも、ほとんどは、ときには昼も夜も滞在しました。その施設は、このような状態に対応するためのルールが実際には何もなく、なるがままにしていました。文字通り何百ものひとがカードの束やたくさんの花を持ってきたので、部屋にあふれ、もらってくれる人を探さなければなりませんでした。

 一ヵ月後に亡くなったときに、2回のお葬式に人が詰めかけてあふれていました。それは、恐ろしい精神病を生き残り、とても多くのサポートを人に与えたために自分が必要とする十分なサポートを受け取った女性の証しでした。彼女は愛した人にかこまれて息を引き取りました。亡くなる前の晩、オルガン奏者である私の兄が彼女の好きな賛美歌を演奏して夜をすごしました。私の義理の姉がキーボードをひき、彼女がずっと昔に覚えた歌を歌いました。なんとすばらしい見送りだったことでしょう。

 退職者ホームでの葬儀は何百人もの人で満席でした。すばらしい供花はとても才能のある孫がデザインした最後の贈り物でした。

 2回目の葬儀は、家族と親しい友人のためのもので、家族が追悼の言葉を読み、ひ孫が再び彼女の好きな賛美歌を歌いました。立ち席にも人があふれていました。多分彼女が望んでいたように、私の兄とケイトの孫娘がオルガンを演奏しました。

 墓地での儀式は家族だけのものでした。春の美しい土曜日の朝でした。お別れを言うために集まっていたところに、美しい鷹が空をゆっくり飛んできました。儀式が終わったとき、鷹は現れたときと同じように、遠い空へと消えていきました。

 ケイトのおかげで、私の躁うつ病という診断は道の行き止まりではなく、彼女のようにわたしも元気になり、元気を維持することができるだろうと知っていました。

 ケイトの体験談や、彼女と同じ立場の人たちの体験談は、何度も繰り返して語られる必要があります。私たちのように精神病を持つものは、ケイトのように元気になり、元気であり続け、豊かで、報われていて、価値のある人生を送っている数多くの人たちがいることを知っている必要があるのです。

(著:メアリー エレン・コープランド、訳:久野恵理、尾川優子)

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