HOME > WRAPの起源 > メアリー エレン・コープランドさんのエッセー > 違っていたかもしれないのに
違っていたかもしれないのに 1 2 3

 私が最初に“精神疾患”について知ったのは8歳のときでした。母がずっとロッキングチェアに座り、震えたり、泣いたり、おびえたり、我慢できないほど寂しがったりし始めたのです。誰も母になぜ泣いているの?と尋ねませんでした。傍に座り、手を握ってあげる人もいませんでした。そのかわり、精神科の施設に母を連れ去りました。そこで母はその後の8年間を過ごしたのです。彼女は栄養学の学位を持っていて、食物が身体に与える影響についての理解は時代の先を行き、とても親切で愛情深く、頭脳明晰な女性でした。その母が、悲しみを止めるために、その当時得られた試験的な薬をいろいろ試しながら、150回の電気ショック療法を受けたのです。

 母は、鍵のかかった、いくつもの分厚いドアの向こう側で、他の50人の女性と寝食の場を共にしていました。一部屋に50あるベッドの間には小さなナイトスタンドを置けるだけのスペースしかなく、何のプライバシーもない、暗く臭いのする病棟で。どうして母がよくならないのか、泣いてばかりなのか、誰にもわかりませんでした。それどころか母は悪くなっていきました。泣くかわりに、手を堅く握り、繰り返し「死にたい」と言いながらぐるぐる歩き始めました。何度か自殺を試みました。時折全く違う様子がみられました。あちこち走りながら、ヒステリックに笑い、奇妙なふるまいをするのです。それは落ち込んでいるときよりずっと私たちを驚かせるものでした。

 8年間、毎週土曜日に3人の兄弟と姉と一緒に母を訪ねて行ったので、私はこのことを知っているのです。本当におそろしい経験でした。私たちが覚えている母とはまるで違う人でした。治ることのない心の病気だから、もう、わざわざお母さんに会いに来なくてもいいよ、と言われました。でも私たちは会いに行きました。会いに来なくてもよいと言われたあと、私たちが大きなグラジオラスの花束を持って母を訪ねていったことを、母は今でも覚えています。

 不思議なことが起こりました。あるボランティアが、母がもうおかしなことをしていないと気付いたのです。母はそれどころか他の患者さんのお世話の手伝いをしていたのです。母は今も、ボランティアの人がずっと母のそばに座って話を聴いてくれて、ドライブに連れて行ってくれたりしたことが、自分がよくなったことに関係があったのかしらと不思議がっています。母が話が長くなって申し訳ないと伝えると、そのボランティアはいいから続けてみてと言いました。それで母は話し続けました。話して話して話し続けました。そうして母は退院したのです。

次のページ >