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私たちにとってリカバリーの意味すること
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支援者は学習された無力感にどのように対処することができるだろうか

 支援者は私たちにたびたび次のような質問をします。「リカバリーに興味がなく、ピアサポートやそのほかのリカバリーにとって大切な事柄に関心を示さない人についてはどうしたらよいでしょうか?」私たちが忘れがちなことは、たいていの人は変化を望まないということです。変わることは大変なことなのです!

 病気、犠牲者、壊れやすい、依存的、さらには不幸せな自分という自己認識と役割に慣れてしまっているのです。病気であることを“受容”し、他人にコントロールされる生活のあり方で我慢することをずっと昔に学んだのです。病気と診断されていない人で、このような生き方をしている人がどれくらい存在するだろうかと想像してみてください。変わろうと努力し、達成できないかも知れない望みを抱くよりも、たとえそれが痛みを伴うものであっても、慣れ親しんだ安全のなかで暮らすことのほうが容易いのです。

 いままで支援者は支援している人に、その人はなにを必要としていて、なにをしたいのかを聞きさえすれば即座に答えが返ってきて、しかも、その人は自分のあり方を変えるつもりがあると思い込んでいる、という間違いをしてきました。長いあいだ、精神医療にかかってきた人は、この世界での存在のあり方を、特に支援者との関係のあり方を身につけ、そこでは患者としての自己定義がもっとも重要な役割になっているのです。

 信頼を築き、どんな人でありたいのかを再定義し、誰かに計算されたものではないリスクをとる過程で、支えられていると感じることができてはじめて、制限を押し付けられ、奥深くにしまいこまれていた内なる力が発揮されます。自分の“病気”について知っていることに基づいて、自分がどんなふうでありたいかを思い描いてはいないだろうか?という問いかけが必要なのです。

 新たなチャレンジに挑み、自分自身の壊れやすさや限界についての思い込みを変えるために、どんなサポートを必要としているのか?と訊いてもらう必要があります。もっとも親しい友人やサポーター自らが変わろうとしているのを目にするとき、自分でも徐々に変化しようと試みはじめます。たとえそれが、冷凍食品ではなくて夕食のための食材を買うというようなことであっても、自分とはなにかという感覚を再構築するためのステップを踏んでいくときに、十分にサポートされていて、成長し続けることを求められている必要があります。

 リカバリーは個人の選択です。支援者が、相手の人のリカバリーを促進させようと努めているのに、その人からの抵抗や無関心を受けることは、とてもやりにくいことです。その人がもっている、あるいは支援者から受けるサポートの質と量に加えて、症状の重さ、やる気、人柄、情報の得やすさ、生活の変化よりも現状維持のほうが利益があると思うこと(ときには障害年金の受給を続けること)などのすべてが、リカバリーに向かって進む力と関係しています。

 特にこれらの新しい選択と見通しに直面したときに、集中的に努力することを選ぶ人もいるでしょう。もっとゆっくりしたやり方を選ぶこともあります。いつ前進するのかを決めるのは支援者ではありません。本人自身です。

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